ゴミ拾いとたすけ一条(ブログ)

ゴミ拾いはおたすけにつながります【結論】

結論から先にお伝えします。
ゴミ拾い活動は何につながるのか?
それは、、
ずばりおたすけにつながるのです!!

青年会南紀分会では、天理教青年会本部の指針の元『自分にできるおたすけに動き出す』『かしもの・かりものの理を治める』をテーマに日々活動しています。

そして、その指針の元、青年会南紀分会の活動の一つにゴミ拾い活動があります。
今回はゴミ拾いの活動とたすけ一条についてお話したいと思います。

ウクライナやロシアの問題、新型コロナウイルスの問題など
それ以外にも世界は大変な問題を多く抱えています。
ゴミ拾いをしたって、だれかがたすかるわけじゃない。
もっとやるべきことがあるのでは?
そう思うのも無理のない話です。
ではなぜ南紀分会はゴミを拾うのか?
ゴミ拾い活動が一体何に繋がるのか?
冒頭に記載したとおり、ゴミ拾い活動はおたすけにつながるのです。それを長々と今からお話していきます。

ゴミ拾いとおたすけの関係を理解するための教理勉強

ゴミ拾いとおたすけをつなげるには天理教の教理の理解が欠かせません。
まず、天理教の教えのベースとして書籍化している天理教教典をもとに、話を進めていきます。

天理教教典に第二章、たすけ一条の道という項目があります。
そこの一部を要約しますと。
親神様は陽気ぐらしを見て、ともに楽しみたいとの思いから人間を作った。
その陽気ぐらしへの思いから教祖を通してこの世界に表れた。
世界一れつの子供をたすけたいとの親心からたすけ一条の道を教えられた。
といった感じです。

たすけ一条の道と陽気ぐらしの関係については以下の抜粋を見てください。

たすけ一条の道とは人にたすかってもらいたいという心一つで
日々歩むことであります
」(『お道の言葉』 P193 たすけ一条)

たすけの道にいそしむ日々は晴れやかな喜びに包まれ、湧き上がる楽しさに満たされる。それは、常に、温かい親心の懐に抱かれ、人をたすけて我が身たすかる安らぎの中に身を置くからである。これが、陽気ぐらしの境地である。」(『天理教教典』 P92 第十章 陽気ぐらし)

つまり、簡単にいうと
天理教の目的は陽気ぐらし世界の実現【目的】陽気ぐらし実現のためたすけ一条の道をおしえられた【手段】たすけ一条の道を歩むことで、陽気な心となり、陽気ぐらしが実現されるということです。
ラフな感じにすると「陽気ぐらししてやー。そのためにたすけ一条の道教えるから、その道をあゆむんやでー。」
となります。

次にたすけ一条の道が手段であったとしても具体的ではない。
たすけ一条の心で何をするのか。
具体案として提示されたのが【つとめ】と【さづけ】です。
よろづたすけのためにつとめ一条を説いた(具体的手段その1)
いき・てをどりのさづけによる身上たすけの道を説いた(具体的手段その2)


つまり、世界中のあらゆる問題のたすかりを願うためのおつとめ
身上、体の問題、病気などのたすかりを願うためのさづけこの二本柱が具体的手段であり、ちょっと強めにいうと、つとめとさづけすればいいんです。ゴミ拾いとか、、、、言ってませんから (笑)

まあでも少し、おちついて。。
おつとめと、おさづけをすればいいんですけど、
なかなかね、なかなかできないってこともあると思うんです。
それに、おつとめとおさづけをすればいいと言ってますが、
そこにはたすけ一条の心が必要で、
人にたすかってほしい、世界の問題が解決してほしいという心が
ないと形だけになってしまうんです。
形だけでも私はいいと思いますが、それはそれとして。

半分ぐらい来ましたかね、疲れてきましたかね、まだまだ行きます。

陽気ぐらし世界実現のためのたすけ一条の道。OK。
たすけ一条、つまり人にたすかってもらいたいという心で
日々を歩むことで、心が陽気になり、陽気ぐらし世界へつながる。OK
たすけ一条に歩む手段としてつとめとさづけがある。これもOK

じゃー、ゴミ拾いの話に進みます。
形だけのおつとめやおさづけじゃなくて、人をたすける、人たすけたい、世界の問題の解決を願う。
そんな心が大事なんです。

おたすけの心を養うゴミ拾い活動


では、その心をどうすれば作れるのか。それがゴミ拾いです!!

もちろん、人をたすけたいという心をつくるための活動、行動というのはいくらでもあります。数えきれないほど
立場や環境によりそれは多種多様。千差万別。最近よく聞く、
子供食堂、フードパントリー
昔からある
募金、ボランティア
他にも
SNSを使ったお悩み相談
戸別訪問、神名流し、路傍講演、パンフレット配り、などなど
ゴリゴリの天理教っぽい活動から、地域社会への貢献、また今の時代に合わせた活動など。例を挙げればきりがありませんし、どれが正解、どれが不正解なんてことはありません。

なんやかんか、いろいろあるなかで、
考えた挙句、南紀分会はゴミ拾いを選びました。
まあ、これはなんでもいいんです。何を選んでもよかったんです。
でも私たち南紀分会はゴミ拾いを選びました。
それはめちゃくちゃシンプルな理由です。

それは南紀分会委員長の思いです。
南紀分会の委員長がこのゴミ拾い活動の発案者、活動の理由です。

なんじゃそらと、思うかもしれませんが、それが一番シンプルで強いんです。青年会南紀分会は組織ですから、組織の長の思いに沿う事が活動が成功するためには一番大事なんです。
もちろん、長が間違っていれば間違った方向へいきますが、
そこは

安心してください!
履いてますよ!!

・・・・・・

委員長の思いは、以下の教祖のお言葉を元にしてます。


金や物やないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の恩返しやから、しっかりおたすけするように。

人を救けたら、我が身が救かるのや


上記の出典は探すの面倒なので、また委員長から改めてゴミ拾いの思いを
聞かせてもらう際に確認します!

上記二つの言葉を元に、委員長がゴミ拾いの思いを伝えてくれました。
委員長の言葉を私の言葉で概要をお伝えすると


南紀分会の委員、会員は親譲り、代を重ねた信仰者が多数をしめる。
ご先祖様がたすけられたという事実、知識はあれど、自身の経験、
たすけられた感動というのを感じにくい状況、立場もあるだろう。
その感動を探す、見つける、感じるところから活動を始めたい。
ゴミ拾いという活動は活動中、地域や周りの方から
「ありがとう」という言葉をかけてもらう機会が多くある。
人に喜んでいただけたという感動がそこに生まれる。
その感動からそれぞれが自分にできるおたすけへ動きだしてほしい。

といったような内容です。
要はゴミ拾いは感動なわけです。
心を動かす、心が動くことでおたすけにつながるわけです。

ゴミ拾いは感動だ!

南紀分会がなぜゴミ拾いをするのか?
それはゴミ拾いを通じて人にたすかってもらいたいという心を育むためです。
上記のおつとめやおさづけにも通じますが、ただゴミ拾いをすること、そこに大きな意味があるのではなく、ゴミ拾いをすることで人に喜んでいただけたという感動があってこそ、活動に意味が出てくるのです。

現実問題として、ゴミ拾いをすれば、人に喜んでもらえたという実感があるのか、経験ができるのかという話をするとありがとうと言われることもありますが、人に喜んでもらえたという経験、実感につながらない場面も多々あります。

しかし、個人的な経験を話しますと、
ゴミ拾い活動を通して感じてきた気持ちの変化はたくさんあります。

具体的な話をしますと、
先月、2022年3月28日のことです。
南紀分会では毎月28日を活動日としています。
これは大教会のにをいがけ活動日に合わせて活動しているのですが、
なかなかにをいがけは難しいという場合もあります。
そんな時はゴミ拾い、ゴミ一つでも拾いましょうと活動をしているのですが、先月は私、忙しかったのか全くその日であることを忘れており、
分会のライングループを夜確認して、
あっ!今日28日だった。。となったわけです。
それで、できることも限られてるので、とりあえず、ぱっと外に出て、5分ほどうろうろし、ゴミを拾いました。
夜でしたので、もちろん人影も少なく、というか誰にも会わなかったので、誰かにありがというといわれるわけもないのです。
ただ、ゴミ拾いをすることで、なんとなく気持ちが晴れ、
以前から気になっていた困っている友人のことを思い出し、
ラインでメッセージを送りました。
日常にかまけてというか、仕事に忙しいみたいな言い訳をもとに、
その友人への声掛けに時間がかかっていたのですが、
ゴミ拾いをしたあとの晴れやかな気持ちがなんとなく心を前に動かしました。その後友人と会う約束をつけ、後日いろいろとお話させていただきました。

私個人はゴミ拾い活動発表当初、乗り気ではないというか、ゴミ拾ってなんか変わる?みたいなひねくれた側でしたが、やってみるのが、青年会。
勝算はなくとも活動するといった形のスタートでしたが、上記のような経験をゴミ拾いを始めて多く経験し、まさに、心動く感動があったことで、今も活動を続けております。

改めて、もう一度結論です。

ゴミ拾いはおたすけにつながります【結論】

ゴミ拾いはおたすけにつながります。
ゴミ拾いとたすけ一条というタイトルで話をすすめました。
ゴミを拾うという何にもならないような、小さな活動でも、人に喜んでもらったという感動や活動によってちょっと晴れやかになった心から
人のことを思う時間が一秒でも一分でも生まれることで
おたすけの心が養われていいくんだなと実感しています。

もちろん、映画や漫画の名シーンで涙があふれるみたいな
オリンピックでの選手の頑張りに心震えるみたいな
子供が生まれる、志望校に受かる、好きな人と付き合えたみたいな
そんな大きな感動はゴミ拾いにはないかもしれませんが、
ゴミ拾いでの小さな感動はそれもまた情緒のあるのもです。

以上。

最後に娘とのゴミ拾いの様子です。娘は素手、私は手袋でごめんなさい。
ゴミ拾ってたら、拾うと言い出して、手袋用意してなかったもので。。

by Hajime Kataoka ⇐クリックすると委員紹介へ移動します。























コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Translate »